3大会ぶりにオリンピック正式競技に復活した野球とソフトボール。プロ野球だけでなく、高校野球やMLBで活躍する日本人選手の人気など、日本には根強い野球人気があります。ではなぜ日本はこんなに野球が人気なのでしょう。実は正岡子規の影響が大きかったのです。

もくじ

  • 1.野球大好き、日本人
  • 2.日本に野球が伝わったのは明治時代
  • 3.正岡子規と野球との出会い
  • 4.子規、不治の病・結核に

1.野球大好き、日本人

東京2020オリンピックから正式競技に復活した野球とソフトボール。2008年の北京大会を最後に正式種目から外れていたので、3大会ぶりの復活です。野球とソフトボール以外には、空手・サーフィン・スケートボード・スポーツクライミングの5競技18種目も正式競技に選ばれました。

でも、なぜ野球とソフトボールが東京2020オリンピックで復活したのでしょう。
実は日本は野球の人気が根強いのでチケット収入が見込める、というのが大きな理由だったようです。

野球とソフトボールが正式種目から外れた2012年のロンドンオリンピックの時は、そもそもイギリスは野球の人気がなく競技を行う野球場すらなかった、今度も野球を行う予定がないのにわざわざ建設するのももったいない、

…というのが、正式種目から外れた理由だと言われています。

日本にいると、野球は世界中で人気があるスポーツのように思いがちですが、実はそうでもなく、環太平洋地域の特定の地域以外では盛んに行われていない、というのが実情なのです。

では、なぜ日本はこんなに野球が人気なのでしょう。

2016年は25年ぶりに広島東洋カープが優勝し、広島県人の熱狂ぶりに驚かされましたが、プロ野球だけでなく、高校野球やMLBで活躍する日本人選手の人気など、日本には根強い野球人気があります。このことを色々と調べてみると、実は国語の教科書にも載っている、意外すぎるあの人の影響が大きかったのです。

2.日本に野球が伝わったのは明治時代

明治5年(1872年)、日本に初めて学制が敷かれ、全国に大学校と中学校と小学校が開校しました。東京神保町の、現在学士会館がある場所には、第一大学区第一中学という学校が開校しました。

この第一大学区第一中学は翌年に東京開成学校となり、さらに明治10年(1877年)、東京医学校と合併して東京大学になりました。つまり現在学士会館のある場所は日本初の大学、東京大学発祥の地でもあるのです。

昭和3年に建てられた学士会館

※画像出典
http://www.gakushikaikan.co.jp/info/

この第一学区第一中学校及び東京開成学校に、明治5年(1872年)前後、アメリカ人教師・ホーレス・ウィルソンが赴任し、生徒達に野球を教えました。これが日本の野球の始まりだと言われています。

3.正岡子規と野球との出会い

日本で初めて野球が行われてから11年後の明治17年(1884年)、愛媛県松山市から上京した18歳の正岡子規(慶応3年(1867年)-明治35年(1902年))が、東京大学予備門(後の第一高等中学校、現在の東京大学教養学部)に入学しました。

子規が入学した東京大学予備門は、東京大学に入るための勉強をする学校ですが、東京大学と同じ敷地内、奇しくもウィルソンが日本で初めて生徒達に野球を教えた同じ場所にありました。

この歴史的な場所で、子規は野球と、そして生涯の友となる夏目漱石に出会いました。

子規はキャッチャーの名選手だったそうですが、この頃の子規の野球への熱狂ぶりは、友人達から“ボール狂”と呼ばれ、友人の俳人・川東碧梧桐(かわひがし・へきごとう)からは“変態現象”と呼ばれるほどでした。

子規は下宿先の自分の部屋でも、ボールを投げたり、飛び上がって採ったり、といった動作を練習していたので、まだ野球を知らなかった友人達は、「お前頭おかしくなったんか?」と不思議がったとか。これでは確かに“変態”と思われても仕方ないですね。

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子規の松山時代からの親友、俳人の柳原極堂は『猿楽時代の子規』という本の中で以下のように書き残しています。

“猿楽町の下宿時代から、正岡は学校から帰ると自分の室で頻りに野球の真似をやっていた。今考えると、あれはボールを投げたり、受けたり、時には飛上がってボールを掴む真似をやっていたのだという事がわかるが、猿楽町の下宿時代には野球なんていうものは非常に珍しい運動競技であって、勿論僕等は知らなかった。

正岡の下宿に行くと正岡が一人で跳ねたり、踊ったりしているので、「お前気狂いみたいに何しよるんぞい」というと、「これかい、これがお前野球というもんぢゃがい」といった。
「野球というもんはそんなに踊るもんかい」と又聞くと、「向こうから投げて来る球をこちらにいる者がこうやって受けるぢゃがい」と又型をしてみせたりした。”

また子規は、幼名が升(のぼる)だったので、自分のペンネームを「野球」と書いて「のぼーる」としたりしました。「野(の)、球(ボール)」…。自由すぎる斬新な発想ですね。ちなみに子規は「Base Ball」のことは「弄球(ろうきゅう)」という訳語を使ったそうです。

子規と言えば「柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺」が有名ですが、野球を詠んだ句もたくさん残しています。どれも野球が好きな方なら共感できる楽しい句です。

chebruaaaさん(@chebruaaa)が投稿した写真 -

「まり投げて 見たき広場や 春の草 」(明治23年・1890年、23歳)
「恋知らぬ 猫のふり也 球遊び」(同上)

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今も上野恩賜公園の中にある正岡子規記念球場
子規は東京大学予備門(現在の東京大学)在学中の明治20年(1887年)頃、ここでも野球を楽しみました。

4.子規、不治の病・結核に

しかし明治22年(1889年)子規は23歳の時、ちょうど東京大学予備門から帝国大学哲学科に進学した頃ですが、当時の不治の病、結核にかかり吐血してしまいました。

そして子規は、“鳴いて血を吐く”と言われるホトトギスを自分に重ね合わせ、ホトトギスの漢字表記である「子規」を俳号として名乗るようになりました。

明治23年(1890年)3月、24歳の頃の正岡子規
後年子規はこの写真に「球と球をうつ木を手握りてシャツ着し見ればその時思ほぬ」という短歌を添えています。

※画像出典
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E5%B2%A1%E5%AD%90%E8%A6%8F

子規は病気を境に野球を辞め、大学も哲学科から国学科に転科、俳句に没頭し各地を旅しながら精力的に句作を続けます。自分の寿命はあと10年程と覚悟し、血を吐く思いで句作に情熱を傾けたのです。
そして大学を中退すると新聞『日本』の記者になり、俳句の革新運動や野球に関する記事を連載しました。

「ベースボール」を「野球」と訳したのは、子規より3つ年下の同じ第一高等中学(元東京大学予備門)野球部の後輩・中馬庚(明治3年(1870年)-昭和7年(1932年)だと言われています。子規も「打者」「走者」「四球」「直球」「飛球」などの言葉を訳し、新聞連載などを通じて全国に野球を紹介しました。

そして子規は明治29年(1896年)、『ベースボール』という本まで出版します。この中で子規は野球をしたことのない人でも野球ができるよう、事細かく野球のやり方やルールについて説明しています。この本の中で述べられている「球戯(ベースボード)を観る者は球を観るべし。」という言葉は名言だと言われています。

インターネットの電子図書館、青空文庫で無料で読める、正岡子規の名著『ベースボール』
http://www.aozora.gr.jp/cards/000305/card43619.html

また同じ年に発表した『松羅玉液(しょうらぎょくえき)』という随筆の中でも、子規はベースボールについて次のように述べています。

「ベースボールには只々一個の球(ボール)あるのみ。而(しか)して球は常に防者の手にあり。此(この)球こそ此遊戯の中心となる者にして球の行く処、即ち遊戯の中心なり。球は常に動く故(ゆえ)に遊戯の中心も常に動く」

また子規の出身地の愛媛県は今も野球王国と言われていますが、これも全国に先駆け愛媛県に野球を紹介した子規の影響が大きかったと言われています。

しかし同年、子規は結核菌が脊髄に感染、脊椎カリエスを併発します。そして再び吐血し重体に陥ります。そのような中でも明治30年(1897年)、子規は俳句雑誌『ホトトギス』を主宰してその中心的役割を果たし、日本の文学に多大な足跡を残します。

当時の日本は文明開化や西欧化が叫ばれ、近代国家への道をひたすら歩んでいた頃。西欧が優れ日本は劣っていると、長い歴史と共に培ってきた日本文化を軽視する風潮がありました。

そのような時代の中、子規は俳諧から発句を独立させて俳句とし、写生的な俳句を確立、また当時あまり知られていなかった江戸時代中期の俳人・与謝蕪村を再評価しその素晴らしさを広めました。

呉春作の与謝蕪村

※画像出典
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8E%E8%AC%9D%E8%95%AA%E6%9D%91

また明治の文豪として名高い夏目漱石と子規は、東京大学予備門時代からの友人で、お互いに大きな影響を与え合いましたが、その漱石が初めての小説『吾輩は猫である』と名作『坊ちゃん』を発表したのも、子規が主宰した『ホトトギス』でした。

子規は『ホトトギス』で膨大な俳句の分類や、江戸時代の俳人・与謝蕪村を世に知らしめただけでなく、夏目漱石をも世に送り、日本近代文学全般に大きな足跡を残しました。

俳句雑誌「ホトトギス」表紙絵

※画像出典
http://www.taito-culture.jp/culture/shodou/japanese/shodou_05.html

小説家の司馬遼太郎は「日本語散文の成立における、子規の果たした役割はすこぶるおおきい」と評価していますが、子規がみつめ、俳句に写した風景は、今も生き生きと私達の前に蘇ります。

子規は病気により野球がプレーできなくなった後も、野球の俳句を詠みました。

「若草や 子供集まりて 毬を打つ」(明治29年・1895年)
「草茂み ベースボールの 道白し」(明治29年・1895年)
「夏草や ベースボールの 人遠し」(明治31年・1897年)
「生垣の 外は枯野や 球遊び」(明治32年・1899年))
「蒲公英や ボールコロゲテ 通リケリ」(明治35年・1902年)

そして結核と脊椎カリウスと闘いながら、明治35年(1902年)、子規は36歳という若さでこの世を去りました。

最後の3年間は寝たきりでしたが、病床の中で残された時間を惜しみながら、俳句の研究と句作を続けた子規。やりたいことはいっぱいある、時間が足りないという無念の気持ちと病気の辛さに苦しみながら、しかし楽しかった野球の思い出が、一服の清涼剤になっていたことと思います。

「うち揚ぐる ボールは高く雲に入りて また落ち来る人の手の中に」
(明治31年・1898年)

そして子規没後100年の平成22年(2010年)、子規は文学を通じて野球の普及に貢献したことが評価され、野球殿堂入りを果たしました。

やはり正岡子規と言ったらこの写真が有名ですね!

正岡子規と野球、関連スポット

野球歴史資料館『の・ボールミュージアム』

正岡子規のことはもちろん、愛媛の野球の歴史、特に高校野球やプロ野球選手の活躍の紹介に定評があります。

【住所】松山市市坪西町525番地1(松山中央公園野球場/坊っちゃんスタジアム内)
【電話】089-968-6660(松山市体育協会)
http://www.city.matsuyama.ehime.jp/shisetsu/koen/tyuuoukouen.html#cmsCDE87

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