黒船来航により危機を迎えた幕末の日本に、彗星のように現れた坂本龍馬。その活躍は小説や漫画、ドラマにも描かれ最近では大河ドラマ『西郷どん』にて小栗旬が演じることも決まりました。幕末の偉人の中でもとりわけ人気が高い龍馬ですが、子供の頃は泣き虫・よばいたれ(オネショ小僧)と呼ばれたヘタレでした。そんな龍馬を変えたスポーツを、日本のスポーツの起源や彼の半生を交えつつご紹介します。

もくじ

  • 幕末の日本を救ったのは、剣術道場で結ばれた志士達のソーシャルネットワーク?!
  • 幕末のヒーロー・坂本龍馬とは?
  • 江戸三大道場の塾頭として剣術の腕を極めた坂本龍馬
  • 幼少期の龍馬は、お坊ちゃまなうえにダメ人間まっしぐらな環境だった?!
  • オネショ小僧だった龍馬が姉のスパルタ教育と剣術により覚醒?!

幕末の日本を救ったのは、剣術道場で結ばれた志士達のソーシャルネットワーク?!

yamayamaさん(@mamboopapa)がシェアした投稿 -

インバウンドに沸く最近の日本。海外からの観光客に人気なのが、春の桜・秋の紅葉・冬の雪景色といった日本の四季の風物です。日本人にとっては当たり前の風景ですが、世界的に見ると、これほどハッキリした四季のある国はなかなかありません。

四季折々の美しい自然に恵まれた日本は、そこに生きる人々の感性を豊かに育み、それが自然=神に対する畏敬の念となり、神への感謝の気持へとつながりました。こうして生まれた神々が、天照大神(あまてらすおおのかみ)や大国主命(おおくにぬしのみこと)や武御雷命(たけみかづち)や建御名方(たけみなかた)です。

日本に“娯楽としてのスポーツ”という概念が定着したのは今から150年前、明治維新以降に欧米の文化が入ってからですが、それまでは神事や精神修業と深くつながり、『道』として精神的に高められた『武道』は、日本のスポーツだと考えて良いと思います。

武士が習得しなければならないとされた『武道』は18種目あるといわれ、『武芸十八般(ぶげいじゅうはっぱん)』と呼ばれました。

Vito Montesanoさん(@vitomontesano)がシェアした投稿 -

その内訳は、時代や流派によっても諸説ありますが、一般的には弓術(きゅうじゅつ)・馬術(ばじゅつ)・槍術(そうじゅつ)・剣術(けんじゅつ)・水泳術(すいえいじゅつ)・抜刀術(ばっとうじゅつ:刀などを鞘から抜き放ったと当時に相手に斬りつける術))・短刀術(たんとうじゅつ)・十手術(じゅってじゅつ)・手裏剣術(しゅりけんじゅつ)・含針術(ふくみばりじゅつ:針を口に含み相手の目潰しなどを行う術)・薙刀術(なぎなたじゅつ)・砲術(ほうじゅつ)・捕手術(とりてじゅつ)・柔術(じゅうじゅつ)・棒術(ぼうじゅつ)・鎖鎌術(くさりがまじゅつ)・錑術(もじりじゅつ:長柄の先に多くの鉄叉を上下につけた道具)・忍(しのびじゅつ)術を指します。

その中でも特に盛んだったのが剣術で、幕末の頃は武士に限らず町人も農民も、剣術道場に通い心身を鍛える人が増えました。

@sarashina_yaがシェアした投稿 -

その中でも江戸の三大道場と呼ばれた桃井道場(志學館・鏡新明智流)、千葉道場(玄武館・北辰一刀流)、斎藤道場(練兵館・神道無念流)は、現在の東大・早稲田大・慶應大のようなステータスがあり、全国から藩推薦の奨学生や、私費留学してでも江戸で剣術修行をしたい留学生が集まりました。そこで志士達は全国の情報を交換し合い、天下国家について語り合いました。

全国から優秀な若者達が江戸に留学し、それぞれの藩邸に寄宿しながら、剣術道場に通ったり、最先端の学問が学べる私塾で学んだりしたことで、志の高い志士達のネットワークが全国に広がり、そのおかげで日本は幕末の危機を乗り越え、近代国家として生まれ変わることが出来たともいえます。

幕末のヒーロー・坂本龍馬とは?

幕末のヒーロー達の中でも、常に人気ランキングの上位に名が挙がるのが土佐藩(高知県)出身の坂本龍馬です。

@terrari_hirokiがシェアした投稿 -

坂本龍馬は日本初の株式会社と言われる『亀山社中』、後の『海援隊』を設立し、その貿易力で敵対していた雄藩の薩摩と長州の仲立ちをして薩長同盟を結ばせ、更には大政奉還成立にも尽力し、江戸幕府VS明治政府という全面戦争を回避することになりました。

もしこの時、国を二分する内乱が起きていたら…?国土は荒れ多くの人命が失われることから、日本の国力は大きく損なわれていたことでしょう。そしてその隙を外国勢に攻められ、日本も他のアジア諸国の様に植民地にされていたかもしれません。

江戸三大道場の塾頭として剣術の腕を極めた坂本龍馬

坂本龍馬は天保6年(1836年)に土佐で生まれ、17歳の時に剣術修行のため江戸に留学し、江戸三代道場のひとつ、千葉道場の門人となりました。その時ちょうど龍馬はペリー提督率いるアメリカ海軍東インド艦隊(黒船)の来航に遭遇し、品川の鮫洲で海岸防衛の任務に就き、国家存亡の危機を生で体験することになりました。そして22歳頃に千葉道場の塾頭となり、北辰一刀流免許皆伝を授けられるほどに剣術の腕を極め、全国にその名が知られるようになりました。今で言えば、東大や早稲田大や慶応大の総代になったという感じでしょうか。

@thanktoがシェアした投稿 -

ちなみに同じ頃、他の江戸三大道場の桃井道場の塾頭は長州藩の桂小五郎、斎藤道場は龍馬同じ土佐藩の武市半平太(瑞山)「たけちはんぺいた(ずいざん)」が塾頭を務めていました。

桂小五郎は明治以降、名を木戸孝允と改めましたが、幕末から明治にかけて長州藩のリーダーとして活躍し、後に『明治三傑』の一人として西郷隆盛・大久保利通と共に讃えられた偉人です。

武市半平太も“土佐の吉田松陰”と呼ばれた土佐藩の尊王攘夷運動のリーダーで、坂本龍馬とは親戚でもありました。明治の世まで生きていれば総理大臣になったかもしれないと言われたほどの人物で、武市半平太に切腹を命じた土佐藩のお殿様・山内容堂(やまうちようどう)も、後に、酔うたびに「武市、許せ…」と後悔したと言われています。
2015年冬クールで放送されたテレビ朝日の金曜ナイトドラマ『サムライせんせい』(原作・黒江S介)では、関ジャニ∞の錦戸亮さんが武市半平太を演じましたね。

ウエハースさん(@kicyu4517)がシェアした投稿 -

剣術の腕を極め、そうそうたる人物達と並んで一躍有名になった龍馬ですが、龍馬は子供の頃から強く逞しいリーダー的存在だったかというと、実はそうではありませんでした。というよりは真逆の、小柄で気弱で泣き虫、10歳を過ぎても寝小便がなかなか治らず、周囲からは“よばいたれ”(オネショ小僧)と呼ばれた劣等生でした。

幼少期の龍馬は、お坊ちゃまなうえにダメ人間まっしぐらな環境だった?!

今も坂本龍馬の出身地の高知市では、優秀な子供には「将来は武市先生みたいな立派な人になるちや」と言い、そうではない子には「坂本龍馬も子供の頃は落ちこぼれじゃったから、おんしも大きくなれば立派になれるちや」といって励ます風習があるといいます。

坂本龍馬が生まれた坂本家は、土佐でも有数の豪商だった本家が、郷士(下級武士)の株を買って興した分家で、身分の低い下級武士ではありましたが、大変裕福な家庭でした。

そして龍馬は平均寿命50歳と言われた当時、父39歳、母40歳の時に生まれた子供で、20歳も年の離れた上の長兄と3人の姉達がいました。つまり、お金持ちのうえに遅く生まれた子供だったので親の躾が甘くなる、加えて年の離れた兄や姉からも甘やかされるという、こう言ってはなんですが、ダメな子供になりがちな条件が揃っていたことになります。

龍馬は11歳の時に近所の漢学塾に入塾しますが、元々勉強が好きではなく塾の勉強についていけなかったとか、イジメにあったとか、喧嘩になったとか、色々な説があり、とにかく不登校となって塾を途中で退学し、ニートになってしまいます。

そして龍馬12歳の時、元々病弱だった母が亡くなりました。母親の死により元々気が弱かった龍馬が、益々気落ちしただろうことは容易に想像できます。

オネショ小僧だった龍馬が姉のスパルタ教育と剣術により覚醒?!

@lunatezzaがシェアした投稿 -

母親が亡くなると、4歳年上の乙女姉さんが龍馬の面倒をよくみたと言われています。
この乙女姉さん、男性の平均身長が155㎝と言われた当時、身長175cm、体重112kgもあった大柄な女性で、典型的な土佐のハチキン(男勝り)、周囲からは“坂本のお仁王様“と呼ばれていました。武芸にも文芸にも長けた非常に才能豊かな女性で、塾を辞めてしまった龍馬はこの乙女姉さんから剣術や文学や和歌や書道を習いました。

乙女姉さんの龍馬への指導法は、一言でいうとスパルタ方式。近所の鏡川で行われた水泳の練習では、龍馬を丸裸にして荒縄を括り付け、川に放り込んだとか。そして龍馬がおぼれそうになると、荒縄の先を結び付けた竿をひっぱり上げたそうです。

後に乙女さんの娘・菊栄さんが語った乙女像は、武士道を守り、常に古武士のように凛としていた、というものです。常日頃から「人間はどんなに落ちぶれても決して尾籠(びろう)(不潔・猥褻、無礼の意味)の振舞はするな。人前で恥をかいたら何時でも死ね」「人間は、天皇様や国の大事の時など、大事の時には泣かねばならん。だがその他の時には泣くものではない」と諭したと言います。
武士道とは、一言で言うと『恥』を最も嫌い、正義と誇りを最も大切に考えていました。龍馬も乙女姉さんから、このような武士道をしっかりと叩き込まれたのでしょう。

そして、龍馬は14歳の時、自宅からほど近い日野根道場に入門しました。龍馬は剣術に熱中し、朝は誰よりも早く夕方は最後まで、寝食を忘れて熱中したと言われています。おかげで寝小便も泣き虫も直り、剣術の腕もめきめきと上達し、心身ともに逞しく成長していきました。身長も乙女姉さんに迫る175cmにまで成長し、5年後の19歳の時には小栗流和兵法事目録を取得、その後更に剣術の腕を磨くため、江戸へと旅立ったのでした。

最後に龍馬が残した名言をご紹介します。

「人間というものは、いかなる場合でも、好きな道、得手の道を捨ててはならんものじゃ。」
「何でも思い切ってやってみることですよ。どっちに転んだって人間、野辺の石ころ同様、骨となって一生を終えるのだから。」
「男子は生ある限り、理想を持ち、理想に一歩でも近づくべく坂をのぼるべきである。」
「志を持って天下に働きかけようとするほどの者は、自分の死骸が溝っぷちに捨てられている情景をつねに覚悟せよ。勇気ある者は自分の首が無くなっている情景をつねに忘れるな。そうでなければ、男子の自由は得られん。」 

よばいたれだった坂本龍馬を変えたのは剣術でした。当時は武道であった剣術も、今では立派なスポーツです。アナタも、もし自分を変えたいと思っているなら、龍馬にならって剣術を始めてみても良いかもしれません。

この記事が気に入ったら
いいね!・フォローしよう
spoit の人気記事をお届けします。

ライター

User avatar spoit
spoit編集部
spoit編集部には元アスリートや各スポーツの有識者の方がメンバーに入っています。もっと多くの人に、もっとスポーツを身近に感じてもらえるように様々なスポーツを紹介していきます。
この記事が気に入ったら
いいね!・フォローしよう
spoit の人気記事をお届けします。
spoitでは、スポーツについて記事を書いていただけるライターを募集しています
Logo